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希望の澱に湧く虫たちのような声色には(3)

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でたよーこういうの。

これだけの材料で一度整理しよう。
ヒップホップ・ミュージックをやってる以上、自分の国の言語(非英語)について考えないわけがないはず。
そして同じアジアン・ラップとして、ハングルラップの英語詞の必要なさ加減は日本のラップにとって驚異&脅威であるはず。
すなわち、近田春夫の言うような現状(後述)への素早い反応のひとつ、ではあると思う。

だからただバカにしてるわけではないと思うんだけど、こういう茶化し方で何かを消化した気になるんであろうか。屈折してるなあ・・・。鬼の首とったようなヴィジュアルだけど、こういうのりかた、私は笑わないしなあ(やむにやまれずそうなっちゃってるものに笑いを興させられる)。
これを笑う層をターゲットにしてるならいいって話でしょうけど。

スチャダラがからむし、それなりに面白い音になるんだろうな。しかしそれを、こういうふうにしか表現できないっていうのが幼稚。
このへんのひとたちの男の子ノリっていうかふざけ方ってずっと昔からいまひとつノレない。ただの悪ノリっていうか、愛が感じられないからかなあ。
同じ度の超えたパロディーでも、タランティーノとかエドガー・ライトには、愛をビシバシ感じるものね。
下品で、あるジャンルの過剰な表象でも、面影ラッキーホールくらい完成されていたらよいと思う。よくできたパロディはひとを笑わせるだけじゃなくて、泣かせるものです・・。
ていうかDynamic Duoとか知ってるかな。三馬身くらい離されてるよー。

Tumlrで見かけたんだけど、近田春夫が、Geeを聴いたとき、「今、日本の商業音楽が韓国に抜かれようとしている!」 って直感したって話で、いわく(うろ覚えの要約)、JにせよKにせよポップはすなわちPOP MUSICなのであって、本場アメリカのマーケットでの評価が最終評価。そのマーケットとの親和性の面でJはKに先んじられたポジションに収まってしまった。なぜなら、Kのポップスはインターナショナルな成功への気概が感じられるけれど、Jは内輪でワイワイやって満足してる感じが強く、もはや世界なんて考えるだけ無駄って感じ。
『スキヤキ』以来の極東からのヒットがデルとしたら、間違いなく韓国から。これから間違いなく韓国に追いつけ追い越せの時代になる。

それ、私がSHINeeの『ヌナンノムイェッポ』を聴いたときに直感した、というか体で知った感覚と同じ。
日本人が精神的に鎖国でいる間に、こんなに世界と乖離してしまった!という気づき。そして自分もそれに加担している。

私が思春期というのは(10年以上前)、なんでアメリカのものさしで評価されないといけないわけ?という機運が高まっていた時代で、少し上のオリーブ世代よりも、より和モノなCUTIEとかZIPPER的なるものが世界を覆っていた。一方で、女子高生ブームが始まってギャル文化と世界は二分された。(世界というか渋谷かもしんない)。
日本産の”カワイイ”を追求したし、それこそサムシンニューだって思っていた気がする。
WASPじみたロックに飽き飽きして、ハロプロのアメリカのポップスを日本流に、あまりに日本流に(っていうかアップフロント節に)咀嚼して作ったポップスにすごく面白みを感じた。
そのうえエヴァンゲリオン世代であって、スーパーフラットという概念が出てきて以降、からっぽなのがいいんだもんね式に世界は肯定され、『日本文化は進んでいる』と刷り込まれて育った世代でもあった。

なわけで、相当に世界離れしている世代だという自負があります。
だからなのか、友達にK-POPの話をしてもまったく相手にされないどころか、「どうしちゃったの?」と心配されたり笑われたりする。私に「chimakiさんならわかると思って言います!(ほんとにこう言われた。泣ける)SHINeeを調べてください!」と教えてくれたのは7歳年下の女の子だった。

そうしてK-POPの扉を開いたのであったけれど、と、同時に即座に焦りを感じたんであった、アイグォー(そういやアイゴーに哀号という漢字をあてるのは誤りらしいです)。

韓国では国民全体がアメリカのヒットチャートにある程度親和性を持っていて、それらを韓国独自のものに咀嚼している!ファッションも然り!なんて大人っぽいっていうか、直系っていうか、素直なんだ!
日本には傍系でやってくんだかんね!それがクールジャパンなんだかんね!みたいな変なひらきなおりがある。
新しいものへの反応がそうな一方で、韓国では自国の古い歌が歌い継がれているからナツメロという概念がないのに比べて、日本では古いものは「古い」と理由で捨ておかれてるという側面もある。
どっちにしても、行き詰まっている。

あーつまりは、K-POPを知ったことによって、自分の人生という尺度とは別の尺度を持った、世界との付き合い方という問題が浮かび上がってきたのです。どこまでも自分の生きている時間と場所だけを尺度にした日常を生きる私たちに、未来ってあるのだろうか。

(たぶん、つづく)
by chimakibora | 2011-03-09 23:45 | K-POP