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a box named flower

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金曜、仕事後急いで日暮里。
谷中墓地を通り抜けるのは初めてでおもしろかった。『私は猫ストーカー』を思い出して猫に気をとられたりしていたら蚊にいっぱい刺された。それ込みで、夏の夕方の雨上がりは谷中墓地にうってつけの日だ。

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スカイ・ザ・バスハウスです。

◆ウィリアム・エグルストンです。
美術手帖で特集されているのを読んで、絶対に観る!と決めてた。
このたび発売された日本語字幕付きDVDが会場でかかっていて、蚊に刺されにムヒを塗りつつ観る。


ここで彼の喋る、写真の考え方に共感する。
私は私のために撮っているだけで、写真とは、色や形をイメージをポケットに持ち歩くささやかな行為であると思っている。色や形が配置された平面はこの世の偶発事の元に発生していて、だから世界を編集する行為でもあるのだと思う。
エグルストンはそうは言ってなかったけれど、おんなじような意味を嗅ぎとった。
文章がそういうことをすることももちろんできるけれど、写真のほうがより寡黙だし、だいいち線条的でないものだからいっぺんにいろいろが浮かんでいて平和的だし、ときどき写真に寄り添いたくなる気持ちがする。

ただ、エグルストンの写真を長く眺めていることが難しいのは、彼が言う「1枚の写真に1枚のもの。複数のものが入っている写真はとらない」の言葉通り、単純な写真だからだろうと思う。
きっぱりしているというほどではないのだけれど、さびしいほどにあっけらかんとしている。そのさびしさに惹かれつつ、長く見ていられないから、なんども観たくなるのかもしれない。

このあいだふと、好きな写真家って誰かな、と思って
・吉増剛造(特に多重露光)
・松江泰治
・武田花
以上三名が思いついたのだけど、吉増剛造は見ても見ても見足りない感じがするデジャヴみたいな(デジャフォトグラフィーと勝手に命名)イメージの提示が好きで、いわば過剰な写真だと思う。
武田花はエグルストンに近く、そこにあるものをただ撮っているストレートさに感情を投影してもいいし、何も投影しないで見てもいい、という自由さがある。
その中間でより知的に撮っているのが松江泰治だという気もしていて、でも彼の撮る大地はそのふくらみを排してただの平面に、模様にしてしまうものであるし、『Cell』の、主観を排して写真の中に写り込んだものを拡大する行為の主観の入り込み方に、エグルストンと共通するところがある。

つまり、過剰さをたたえて、あっけらかんとしている写真、ということになるのだろうけれど、そういうものが好きだとわかった。
原美術館も行かなくては。

◆長島有里枝です。
長島有里枝については、an・anでリレーコラムを書く程度に文筆に携わる写真家(その写真についての感想は特になし)というほどの認識しかなかったのですが、先日上梓された著書『背中の記憶』を読んでぶっとんだのでした。感動した。ほんとに何回も読んで、そのたびに泣いた。とくに『マーニー』。あれは私の家族のことか、と思った。私もマーニーのひとりである。

ここ数年こういうものが読みたいと思っていた類の密度と温度の文体で、家族という共同体のその中でしか通じないささやかな出来事とその愛と憎しみの表裏一体の普遍性が書かれていて、記憶を、エモーションに流されること無く、自分にとって誠実に(それを読者がどう受け止めるかはまた別の話)うつしとろうとする姿勢と筆致に感動させられる。

『背中の記憶』が平積みになっていたとき、装幀がピンとこなくて、手にとろうとしなかった。
だってロシアンアヴァンギャルド風デザインで、ふつう、装幀に沿った内容を想像するではないですか。たまたま図書館で手にとってほんとによかったと思う。
読み終わった今も、装幀が内容とリンクしてないのはざんねんだと思う。彼女の写真を使わなかったのは英断という気がするけれども。良くも悪くも本との出会いにおいて、装幀が大事なのは確かだ。

けれどこの本を読んで、本当に複雑な気持ちになったのは確かで、長時間露光のようにものを見て、それを言葉に組み替えて日常を生きていくことができたら、私はほんとに幸せで、いろいろ文句を言ったり不安に思ったりしても、ほんとうにはそれ以上望んでいない、と思っていたから、写真を撮って、それを言葉にうつしかえもする(そしてその才能がある)写真家というのはこの世で一番しあわせな存在じゃないかと思う。
あと、文章とか小説とかいうものの擁護派として(別に守る必要もなければ代表になる力もないのだけれど)写真はずるいよな、と近頃肩を落としていたからというのも、ある。

今回の写真は、『背中の記憶』の一編に出てくる、亡くなった祖母の荷物の中から出てきた、ほんとに何気ない園芸の記録として撮った庭の花の写真にインスパイアされていて、花を見つめその写真を撮ることは、とりもなおさず彼女の祖母とつながろうとする行為のことだったのだと思う。

だから彼女がすごくありふれた洋モノの園芸花を撮るとき、その花自体が示す存在感と関係なく、そこで止まっている時間以上の綿々とした時間を感じて、ふらふらめまいがするのだ。
あまりに個人的な事柄においてですら、ひとはつながることができる、ということを思う。こういう風にしか、本当にひととつながる実感がない、とあらためて思う。

けれど、私は長島有里枝に関しては、写真よりもその文章を支持するし、楽しみにする予感がする。
彼女の文章を読んだことで、文章の立場にたって、写真はいいよなーと、半分いちゃもん的にうらやましがるのは、やめようと反省をした。
by chimakibora | 2010-08-01 12:47 | 観る・聴く