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映画の発見

イ・チャンドンの『オアシス』をDVDで観まして、こう言ってはなんですが、でもこう言いますが、イ・チャンドンマジマジハンパネーと敬服しました。もちろん号泣したし、どんびきもした。そういう俗な反応をもゆるすような懐深さがイ・チャンドンの映画にはある。だから私は安心して号泣したし、どんびきした。イ・チャンドンのまなざしの慈しみと冷徹。それらは私が優しさだと考えているものだった。

あのー、そしてですね。私、発見したのですけど。ユリイカ!と叫ぶほどに。映画だけが唯一できることを。
誰もが知っているかもしれない映画だけが唯一できることについて、私は『オアシス』で初めて経験したのです。

軽い知的障害があって社会性に欠け、結果前科三犯のはぐれ者ジョンドゥは、家族にすら疎まれています。彼は重度の脳性麻痺のコンドゥを強姦しようとするし、無免許で他人の車に乗るし、義姉の財布からデートに使うお金を抜き取るし、いつも薄く笑っていて、伝えたい言葉はすべて、彼の手前でカッツーンと落ちるのが見えるような気がする。疎まれるのもやむなしと思えるような厄介者。
警察署から逃走したジョンドゥが、コンドゥのオアシスを実現するために、彼女の家の前の樹にのぼり、枝を切り落とすシーンも、私が彼の家族であったなら、情けなさと怒りしか起こらなかったと思う。刑務所に入って更正するのが彼の生きる道だと確信するに違いない。

けれど、私は、彼がコンドゥの洗濯物を洗う手つきを、彼女の車いすを押す姿を、ジャージャー麺を食べさせてあげるところを、彼女をおぶって地下鉄の階段を駆け下りる姿を、彼女をこわがらせるものを取り払う魔法を、見た。全部見た。誰も知り得ない一部始終を見た。決して、”親切”という記号の提示ではなくって、フィルムが、その動作の余白にあるものを、じっと映しとっていた。そのためにカメラがまわっていた。

それは、見届けることを可能にするものにしかなしえないことじゃないの!と私は叫んで、見届けさせるものとは、映画をおいて他にない。と解説します。見届けることに関しては、たとえ小説でも、できません。

同じようなことは、ダルデンヌ兄弟の映画にも感じたことはあるのだけど、ダルデンヌの場合、カメラは徹底して対象を追い、最初から見届けることを決意している。私たちは、その決意に、とまどいながらついていくのだと思います。
イ・チャンドンの映画では、見届けることの不可能性と、見届けることを可能にするもの(映画)の存在に気づかされます。それは視点や話法の問題ではないのか?という質問があったと仮定して、うまくお答えできませんが、神の視点というような話ではないことは確かなので、おいおい考えていきたいと思っとります。

えーっと、ここにひとつ、思い出すと胸が締め付けられそうになる場面を、おいておきます。

ジョンドゥは出所して、通りすがりの商店で自分で豆腐を買って食べる。出所したら身を清くするために、豆腐を食べたり牛乳を飲んだり、白いものを摂取する慣習が韓国にあって、それらは家族や親しい人たちから差し出されるはずのものであるのだけど、ジョンドゥには迎えが来ないから、自分で買って食べる。いや、正確にはジョンドゥはお金を持っていないから、お店のアジョシからわけてもらう。無邪気に、もっといいブランドの牛乳はないのかと訪ねるジョンドゥに、アジョシは「我慢してそれを飲め!」とあきれながら笑う。

このアジョシの態度は、この映画のなかで他に誰も見せることがないものなのですが(たばこをくれた男もそうかもしれない)、公共性と、相反するアジール的な性質を、自分の商店で同時に実現しているんだなと感じました。なんというのか、毎朝毎朝シャッターを開け、生活のものを売り買いするこの店で、自分もこの男もこの世界の一部だというような肯定感が、あの導入のシークエンスにあって、後で思い出して、ウッときてしまいました。

ほかにももっと重要な場面はいくつもありますが、それらの発するものを言葉に置き換えるのには、時間がかかりそうです。

キリスト教の神父が二度ほどでてくるのだけれど、映画は彼を批評する視線を一切注いでいないのに、現実の人間の矮小でパーフェクトではない愛の行為・時間を伴う愛の前では、宗教(一神教)の神へ誓う愛とは、とるにたらないものだと思わせる説得力に満ち満ちていて、それは私の考える愛というものの感触と似ていました。
by chimakibora | 2009-08-27 00:53 | 観る・聴く